医療法人 富田浜病院時代          ①

三重県四日市に富田浜病院はあります。大正7年に石田誠医師が緑仙堂石田医院として設立し、翌年にこの病院名となりました。結核病院として三重県でも有数の病院として機能していましたが、昭和58年に(財)河野臨床医学研究所が運営を引き継ぎ救急病院として新生富田浜病院が生まれました。私は、この数年後に北品川病院より出向して赴任しました。今まで結核病院として機能していた病院が救急病院に変わったので看護も医事課もすべて大変でしたので品川から各課へ応援が来ていました。品川同様に「断らない救急病院」が使命ですから毎晩整形・脳外科・外科が待機です。我々コ・メディカルスタッフも同様に宿直です。品川からの出向スタッフは一軒家に寝泊まりしながら救急医療に励みました。医師・放射線・医事課・研究所の男性スタッフが毎晩同じ屋根の下で生活し救急医療を根付かせるために必死でした。その後、男子寮へ分散したりしながら生活環境も変化しました。敷地内に研究所があり仕事が終わると良く遊びに行きました。研究所内にはラットやウサギが多く飼育してあり各テーマに沿って研究がおこなわれていました。当初は、大正時代の西洋風木造建築がそのままが残り利用されていたのでなんともレトロな病院でした。板張り長廊下・木製らせん階段・日光浴室・レンガ塀・レンガの給水塔など東京から来た連中にはタイムスリップしたかの思いでした。庭には葉蘭が群生していましたね。研究所での酒盛りや男子寮での酒盛りなど結構羽目を外した時代です。

(画像は当時の富田浜病院)

うさぎにギプスを巻く!           ②

北品川病院にも研究所が当然あり多くの研究がおこなわれていましたが、ウサギの脚にギプスを巻いた経験があります。靭帯の研究を行っていた河野稔彦先生・横山孝先生チームの助手の頃にこの指令が来ました。「君 今日の午後研究所でウサギにギプス巻いてくれ!」という指令です。「ウサギの脚にギプスですか?はあ~やってみます!」と言ったものの先輩の坂本先生と悪戦苦闘して巻き上げました。「なんか獣医みたいやな?」「これ取るときはギプスカッターで切りますか?怖いですね・・・脚切り落としそうで・・・」などと二人でつぶやきながら苦労した思い出があります。

富田浜病院の研究所では頻繁に酒盛りが行われ、ある時に八丈島出身の職員が「くさや」を焼き始めたため入ってきたメンバーが「便所が燃えてるぞ!」と大騒ぎになった笑い話もあります。確かに的を得た言い方ですが「くさや」の名誉のために言っておきます。「くさや」は、臭いはきついですが大変おいしい名産品です!

リハビリ課係長から医事課係長へ       ③

リハビリ課係長から医事課へのコンバートの話が舞い込みました。河野院長の発案で交通事故患者に関する保険会社との交渉で医療現場に従事した者が交渉することで円滑化できないか?また医事レセプト内容のチェックも現場経験者が行うことで返戻などの減少や請求漏れの防止に繋がるのでは?というものです。確かに交通事故での保険会社との質疑(文書や面談)に答えるにはドクターは超多忙です。救急病院として年間で多くの交通事故患者が運ばれていたので、その対応には非常に時間を費やしていたのが現状です。私の役目は、各保険会社との交渉業務・詳細説明であり、その内容は患者に施された手術や治療に対する保険会社からの質問に対応することでした。当時は交通事故関係は、東京海上が座長役で各保険会社を連ねていました。保険会社数社が集まる質疑応答の会議では、各保険会社からの質疑に一つ一つ答え疑問を解消していくことが役目でした。これは結構疲れましたね~。交通事故では、事故当初の治療費は、自賠責(国の保険)が優先的に使用されます。よって保険会社は代理委任にて国の自賠責業務を進めています。治療費がある一定額をこえると今度は保険会社自身から治療費が支払われます。治療費・慰謝料・逸失利益などなど。逸失利益とは、本来事故に遭わなければ得られたであろう利益です。例えば・・事故当日が顧客との契約日であったのに事故によりその契約が取り消されあるべき収益を逸したようなケース。国の自賠責は主として被害者救済の目的で加入が義務付けられているので『強制保険』とも言います。よって人身事故の対人補償のみです。これに対し一般の保険会社の自動車保険は、加入者の希望で加入するので『任意保険』といわれます。自賠責だけでは被害者の治療費や慰謝料などが賄われないケースが多いので皆さん任意保険に入るのが常識になっていますね。

私にとってこの医事課での経験は大変貴重なものでした。同時に診療報酬請求(レセプト)では、 整形外科以外の脳外や外科・内科・産婦人科などなどの診療内容を勉強でき、またドクター達との連携で多くのドクターと膝を突き合わせることとなったのですから・・・・。

多くの経験が私の礎となっています・・深謝!